「事実と解釈」という存在
対話型鑑賞ファシリテーター養成講座の学びの中で、一番私が興味を持ったのが「事実と解釈」でした。
※アート好きな人には申し訳ないな、と思いつつも個人的には、本筋のアート作品を楽しむという視点より、こちらの文脈の方が刺さったのでした。
講座の中では、事実と解釈をしっかりと聴き分けていくことが大事であると教わりました。
鑑賞者それぞれの解釈は、本当に人それぞれで個性豊かです。
そして同時に、解釈はその人の頭の中で起きていることなので目で見ることができません。
自由度の高い解釈は一度聞いただけでは自分の中では理解できないことも生まれます。
それを理解できるようになるためには、事実(アート作品の鑑賞においては、描かれているどの部分)が存在するので、鑑賞者の解釈と事実を紐づけていくために「作品のどこからそう感じましたか?」という問いが必要になってきます。
この「どこから?」という問いは、とってもパワフルであり、そして人々を平和へと導く神のような問いだな、と感じています。
平和。
なんて大袈裟に感じるかもしれませんが、実際のところ、さまざまな問題は人と人との会話の中の認識違いから起きている。と感じています。
ビジネスシーンに限らず日常も含めて、
A「私は確認してって言ったよね? 〇〇の”前に”確認するのが当たり前でしょ? どうしてしなかったの!?」
B「いやぁ、〇〇の”後で”確認しようと思ってたけど、、。」
Aさんは「確認してね」の言葉には『〇〇の”前に”確認するのが当たり前』という自分の中での当たり前という解釈・思い込みを前提として(ま、当たり前だからね、言うまでも無い。ってなるよね)、「確認してね」とだけ言った。
と言うことに対して、Bさんは自分の経験値なのか感覚なのか何かしらの解釈・思い込みによって、「〇〇の”後で”確認しよう」と、受け取っていた。
みたいなことは、いーーーっぱい経験しているのではないでしょうか。
しかもBさん側においては大体の場合、当人は意図したわけではないし悪気もないんです。
ま、悪気があって意図してアクションしている場合もあるかもしれないけれども。
どちらにしても、Aさん側としては
「なぜ?どうして?理解できなーい!?」
となりますよね。
そうなるんだけども、そこで「それはどこからそう感じたの?」の登場なのですよ笑
と、まぁここまでにしておきますが、、
日頃の会話において、どれだけ聴き分けられ、使い分けられているのか。
私は講座の学びを通して、より解像度高く考えさせられました。
事実と解釈の学びを経て
あくまでも私の中での解釈ですが(笑)下記のような認識に至りました。
- 事実と呼べるものはかなり少ない(特に複数人の関係において)
- つまり、世の中ほぼ解釈である
そして、解釈は言い換えると「思い込み」ともなり、サピエンス全史の”虚像”とも通ずるところがあるなぁとも感じつつ。
そうすると、日々の会話はほぼ思い込みでやり取りされている。とも言えてしまうわけで。
伝わったと思い込み、後日伝わってなかったー!
ということを私たちは繰り返している。
そして悲しいかな、喧嘩、論争、裁判、戦争などなど、争いごとへと発展してしまう。
違う視点では、イメージしやすいのは「伝言ゲーム」ですよね。
瞬時の記憶力という要点もありますが、聞いたことを自分の解釈で捉えて伝えてしまいがち。結果、どんどん内容が変わっていく。
もうこれは自然な流れなんだな、と。
という一連の事実と解釈について認識できると、徐々に会話の仕方が変わってくる、
というか変えざるを得なくなってくるように思います。と言うか思いたい!(ただの願望ですね)
とはいえ、「では私は明日から自分の言葉遣いや問いをチェンジします!」と宣言したとて、そう簡単にはできないのですが。
でもトレーニングとチャレンジによってだんだんとできていくんですよ。
そのためにも対話のスキルとか以前に、この「事実と解釈」という存在にまず気づくところから、というのがポイントだなと感じています。
そういった可能性も含めて、論理など頭で理解するところから入るよりも、まずは体感させてくれる対話型鑑賞が素敵だよ。っていう話でした。
(ちょっと無理くり笑)
対話型鑑賞遊びを通じて知り合ったミルキクの森永さんから教えていただきました。
この本からの学びは、対話における心得がシンプル。
なんだけどもとても丁寧に書かれているので、おすすめです。
しかも薄いのですぐ読めちゃいます!
ちなみに、森永さんは医療業界の方を中心とした無料の対話型鑑賞体験会を定期的に実施されているので、興味ある方はぜひチェックしてみてください。