なぜ「アート」を題材にするのか。

こんにちは。
対話型鑑賞のメソッドを活用して、<本質的対話を体感から学ぶ>ワークショップを開催している村瀬です。

今回は、ワークショップに参加くださった方から「なぜアートを題材にしてみようと思ったのか?」という質問をいただきお返事を作成している中で、自分自身の振り返りにもなったのでブログにしてみました。

対話型鑑賞の発祥の歴史から言えば、「アート」が題材になるのは当然のことなのだけれど、

質問の意図としては、私のワークショップは主題が「対話の学び」なので、その主題に対してなぜ「アート」を用いるのか?

ということだと思います。
対話についての学び・ワークショップの形は色々ありますからね。

シンプルに答えようとすると、

「たまたま私が対話型鑑賞に出会って、そのメソッドに惚れ込んだから」

という回答になると思います。

もし、他の手法に出会い、それに惚れ込んでいたらその手法でワークショップをやっていただろうな、と。




では、対話型鑑賞の何に惚れ込んでいるのか。

私もこれまでにまとめたことはなかったので、今回を機にまとめてみました。

色々書き出してみた結果、ポイントは3つですかね。

1)「圧倒的受容」の体感

「圧倒的受容」とは、否定が存在しない。受容するしかない。という感覚です。

そしてこれを、知識として頭で理解するのではなく、体験・体感を通して身体が感じることができる。

これがまず外せない魅力だと感じています。

その圧倒的受容が必要だと感じている理由としては、チームビルディングにおける心理的安全性の観点からです。

どんなポジションの人でも、ものすごい経験・スキルの持ち主も、絵を前にすると自然と”いち人間”になりやすい。

「すごい人」っていう存在がいなくなる。つまり平等になりやすい。

「社長がああ言ったから、こう言おう」みたいな力が働きにくい。

ファシリ次第で100%働かせないことが可能。とも言える。

これがアート(正解がない、という前提において)の力だな、と。

私が主題に置いている「対話」に置いては、アートによってこの平等性/心理的安全性のある空気感を作りやすいという点が最大の魅力だと感じています。

この時間を過ごして、この感覚のまま、日常における課題に向き合う時間を作ると、いつもとは異なる見方・感じ方で取り組むことができる。でもその前に、まずは感情の乱されないアートでこの感覚を体験することが大事だと考えています。

2)「正解がない」という前提

「正解がない」という前提だからこそ、

・各自の個性ある意見が出てきやすい

・同じ作品を見ているのに、異なる意見が出てくる状況を通して、人はひとりひとり感じ方・興味関心の向き先が本当に違う、という体感をせざるを得ない。

この経験から、日頃「自分の信念・考え方が絶対正しい!」と感じていることにいい意味で疑問を投げかけられる。

そして、同時に他者理解も深まるメリットがあります。

ワークショップでは初めまして同士が多いのですが、対話型鑑賞を通じて小一時間でも一緒に過ごすと、「何となく参加者のキャラクターがわかってきた」という声がよく出てきます。

同じ仕事のメンバーであれば、その効果はより高まり、「どうしていつもああいう物言いなのか」など、腑に落ちなかったことも腹落ちしていくことでしょう。

3)現代の「正解がない時代」において、生き方にも通ずる

VUCAの時代と言われそれなりに時が経ちましたが、今どれくらいの人が「正解がない」状況への耐性を身に付けられているでしょうか。

「ネガティブケイパビリティ:答えのない事態に耐えうる力」
おすすめ本:ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 帚木 蓬生 (著)

これまでは先達の作った道を歩けば安心だった時代でしたが、今は快適な道はなく360度ジャングルのような時代です。

どの方向へ進むのか。

どのように切り開くのか。

1人では難しく、仲間と対話を通して試行錯誤して進めるしかないある意味サバイバルな状態です。

そんな頼りになる「正解」がなくても、自分を信じ、仲間を信じ、前を向いてトライしていくことに価値を見出せる精神力、とでも言いましょうか。

「正解」がない。そんな不安定な状況でも、自分自身を保てる力。異なる意見も受け止められる力。

それが絵を見て対話するだけなのに養われてしまう。

下記の対話型鑑賞についての紹介投稿にも効果などを記載していますが、本当に底抜けな影響力を持ったメソッドなんですよね。
(もちろん、1回や2回程度の鑑賞経験では養われません。やはり一定期間の中で繰り返しが必要。)

自己探究が好きな私としては、この対話型鑑賞の副産物:コミュニケーション能力全般が育まれれるという点も譲れないところです。


ということで、私の場合は「アート」だから、というより

「対話型鑑賞」だから「対話の学びのためにも活用している」。

という回答になるのですが、これは回答になったのだろうか。。

「対話型鑑賞」に惚れてしまっているが故に、ちょっと不安になっちゃった笑

ただ個人的には「対話型鑑賞」というキーワードをあまり前に出したくない想いもあり、この私の対話のワークショップに対して異なる名称をつけるならば何がいいのかアイディアを募りたいくらいです^^



しかし、今回まとめていて気づきましたが、対話型鑑賞そのものも「アート」だと言えてしまうな、と。

上記3つの視点で素敵なポイントを挙げましたが、詳細まで書き出すと結局多様&複雑になっていくし、何より体験した人がその多様さの中から、何にフォーカスしどんな気づきを得るのか、これすらも自由度が高い

ファシリを含め他者からは予測もコントロールもできない領域にある。このことすらも私は魅力だと感じ、ワークショップを開催する醍醐味でもあるなぁと感じてしまうので、テーマを絞りたくない欲求もあったりするんですよね。。(悩ましい笑)

ちなみに。
「対話型鑑賞」というキーワードをあまり前に出したくない理由は、あくまでもメソッドの活用だから。
対話型鑑賞の主目的「絵画の鑑賞スキルを上げる。アートを好きなる」に対するワークショップを行なっているわけではないのでね。
もちろん、主目的への貢献もしたいです。もっといろんな形で広がってほしいですからね。

Thank you for sharing!
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この記事を書いた人

村瀬 敬 / murase kei
「対話力」構築プロデューサー/自己探究付き添い人/自己探究マニア
趣味は言語化、図式・視覚化、言葉遊び、間取り図眺め、遺伝子易経観照、猫動画鑑賞、いけばな
そして猫とあんこLOVE。

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